「おもいだすことなど」

この街に来て1年が過ぎた。
この齢になると毎年感じることだが、365日×24という時間が過ぎるのが速い、
しかも加速している気がする。誰もがそう言う。
だが、
自分に限って言うと、
それは自分に都合のいい言い訳に過ぎないんじゃないか、と。
しばらく旅に出て帰ってきたときにも感じることだが、
つまり、
わたしはいろんなことをちゃんと見ていただろうか、と。
この1年、自分のまわりで起こったことを、おまえ、
きちんと見て来たんかい?と、自問する。
なぜそんなふうに思うようになったのかというと、
ある晩、ふと
ひとりでいることに慣れすぎていはしまいか、
という疑問が湧いたからである。
もちろんこういうやり方は、わたしが望んでしてきたことなのだが、
そうはいっても、最近、
今後もこの路線を続けて行っていいのだろうか、と
たびたび思う。
ひとりでいるときというのは、ニュートラル、まあ言ってみれば、
可もなく不可もなしという感じで
ものごとに対しても、フェアな立場でいられるんじゃないかと
思っていた。
それはたしかにそうなのだが、
それでもなお、そうばかりでもなさそうだと、考えている。
ここに来る直前から、それはうすうす感じていた。
人々に揉まれてこそ、
自分の硬質な部分や、
見ないふりをしていた部分が
自分の眼前に露呈するからである。
そんなこと、当たり前なんだけど、
あまりにも自分のなかにいることが快適だったから、
うっかり忘れていたのだ。
それはあんたが迂闊だからだ。
そうそう、そうなんです。
このところ、自分の迂闊さに腹が立っている。

「またもや阻止されたきぶん」

目下の敵は、この、ストライキである。という話は前にも書いた。
明日はゼネスト交通機関もストップするので、休講せざるを得ない。
ストライキの種類にはいろいろあるが、
交通機関が麻痺すると、郊外から来ている学生にはツライ。
学校への足が確保できない学生がいる以上、
こちらとしては開講して彼らを置いていくのがはばかれる。

それにしても、こうしたことが子どものうちから日常的に
(そこまで頻繁ではないにしても、だ)
行われていると、
〈スト=学校休み〉の構図ができあがり、
当たり前になってしまうのではないか。
ヒトは楽な方へ流れがちだから、
わたしが子どもだったら、
明日はスト=学校休み=超ラッキー
と、間違いなく思うと思う。

だがしかし、
それは同時に学習への意欲を低下させる原因にもなり得るわけで、
これがもっとも憂慮すべき点であると思う。
国の将来を担う次世代の人間に学習意欲が欠如したら、一体、
どうなってしまうのだろうか。

そう思うと、
ストに反対する人々が出てくるべきである。
あ、ストに反対して、ストを行うことになるのかな。
だとしたら、もはやお手上げである。

「わからん」

わからないことは続く。
この国はストライキが多い。
交通機関のストも頻繁にあるが、学生たちもストをする。
国立大学では学費がかからないのに、ストをするのである。
その理由がわからなかった。
だって、
タダで勉強させて貰って、その上何が要求できるというのか?
聞いたら、血税だから正しく使えよ、とアピールするのだそうだ。
ほんなら、その話し合いをしている間がストになるわけなのか、
というと、そうでもないらしい。
オイラたちはあんたらのやり方に、目を
光らせているぞ、忘れんなよ、
という
アピールなんだそうである。
そう言われると
なんとなく、わかったような、わからんような…
とにかく、
生活をストップさせることはやめてほしいのである。
こっちにはいろいろ計画していることがあるのだ!
やっぱり、納得できないのである。

わからないこと

いまでもわからないことは、いろいろある。
だが、
もっともわからないことは、
生活と旅のちがいだ。
このところ、
といっても、このうちに引っ越したころからだから
かれこれ半年くらいだろうか
ずっと考えている。

ときには
ひとに聞いてみることもあるが、
いまだにわからない。

このプロジェクトが終わる来年の10月頃になれば
わかるんだろうか。
ちょっとは
何か手応えみたいなものを
わたしは
得ることができるんだろうか。

あ〜
旅がしたい。
遠い国に住んでいるけど、
もっと遠くへ行ってみたい。

「瀑布」

世界3大瀑布のうち、初めて見たのがこれだ!「Iguazú」
イグアスゥ。「スゥ」にアクセントがある。なかなか見応えがあるのだった。

そして、スピードボート!
悪魔ののど笛と呼ばれる滝が深く切れ込んだ部分に突っ込んで行くのだが、
これにはぜひ!水中めがねやゴーグルを持って行くべきなのである。

公園内には観光用のトロッコが走っていて、その終点「のど笛駅」から遊歩道を15分くらい歩いて行く。

遠くに水煙が上がっているのが見えてくると、のど笛がある。

「Llamadas」(呼ぶこと)

この国の人口の黒人が占める割合はわずかに5%にすぎないそうである。
だがしかし、歴史のことがあるのでパレードで太鼓を叩いている人々は、たとえイタリア系でも顔を黒く塗る。



そういうわけで、昨夜のパレードは「llamadas」と言う名前だそうで、
これは文字通り祖先の魂を「呼ぶ」ことなのだそうだ。