「あけました」

この町に来て、2度目の新年を迎えた。
今年は日本からの来客があり、
久しぶりにいろいろな話をしている。
そんな中、彼女はわたしに次はコスタリカへ行けと言う。
それもまたおもしろそうだ、と思いながらベッドに入ったら、
案の定、初夢はコスタリカになった。
もちろん、毎度のようにそこで何をしていたのか、
覚えているはずもないのだが、
まるで言霊のように彼女のことばがわたしに響き、
自ずとその場所へ導かれていくように感じた。

「2度目のクリスマスは」

うちの前の通りでは、人々が花火を打ち上げている。
今夜はクリスマス。
わたしにとっては、この街で過ごす2度目のクリスマス。

時間の流れが速いから、もっと目をしっかり見開いて、
周りをしっかり見なければならない。
耳をもっとそばだてて、いろんな音を聴かなければならない。
わたしのアンテナをまっすぐに立てて、
何が起きているのか、
わたしは何をしなければならないのか、
もっと
もっと
注意深くしなければならない。
そうしなければ、
きっと、
後悔することになるだろう。
反省はいくらでもするが、
後悔だけは、できるだけ少ないほうがいいだろう。

「むずかしさ」

こどものころから人間関係や人脈の作り方に問題をずっと抱えてきた自分だが、
ここに来て、身内との関係がぎくしゃくしていることに不安を感じている。
度々、父のことを書いているが、父親という存在は自分たち家族の中で
どのようだったのか、忘れられつつあるのではないかと感じている。
誰に忘れられつつあるのか、というと、残されたわたしたちに、である。
ついに人の親になることがなかったわたしではあるが、

親が子を思う気持ちや
子が親を思う気持ちに対して
わたしなりに想像力を働かせてきたつもりだ。
だが、
どんなにがんばっても、わたしの能力が足りないのか、
残された家族のメンバーの想像力が足りないのか、
行き詰まったとき、わたしが思い出すのは
いつも父の姿なのだ。
家族内の核を失った今、
つまり、リーダーのいないグループは
ばらばらで
まとまりがなく、
まったく勝手に動いていく。

「ふしぎな訪問者」

この季節になると、思い出されるのはじぶんの父親のことだ。
もう12年くらい経つ。
父が亡くなる前、
その当時の自分としては精一杯のことをしたつもりなので、
父に対してやり残した感が、ない。
あたしはあのときできる限りのことをやったのだ、
というささやかな自負があるから、
ヘンな論理もんだが、
父はよくわたしの夢に現れる。

気がつけば、わたしが運転する車の助手席で、
なんやかやとわたしの運転に文句を付けていたり、
気がつけば、電話の相手が父で、
じゃあ、何時に待ち合わせする?とか、
平気で話していたりする。
まったくおかしいのは、それがほぼ毎回きまって、
気づいたら相手は父だった、ということだ。
父が夢に出てきた朝、
目覚めると気分がよい。
ところが、
今まで見送った友だちなんかで、
彼らに対してやり残した感が強いと、
ぜんぜんわたしの夢に出てきてくれない。
一体、どういうわけだろう?

「あたまんなか。いしばしをたたかずにわたるの巻」

自分は、いわゆる〈キレ〉やすいほうではないと思っていたのだが、
最近、我ながらこれを疑い始めている。
わたしは、もしかするとキレやすいほうなんじゃないだろうか、
あるいは、
最近あたまのネジが2、3本どっかに飛んで、壊れ始めているんじゃないだろうか。

というのも、
行動に移す前にまずは熟考してみて、
もし、これをやったら、次にどんなことが発生する可能性があるのか、ないのか、
などと考える、ということがうまくできなくて、
熟考しないでいきなり行動に出て、そして、失敗する。

ふつう、いい年をしてすることじゃない。
いい年をして、悩むようなことじゃないはずだ。
いままで散々失敗して、落ち込んで、立ち直ってを繰り返し、
いまじゃ、たいていのことにはびっくりしないし、
たいていのことでも悲しまなくなった。
それなのに、ささいなことで泣き出すし、
他の人が怒らないようなことに腹を立てる。

ちょっと待って、とわたしに言い聞かせる自分が、いない。
だから、行っちゃえ行っちゃえ、と調子に乗ってどんどんどんどんエスカレートしていくが、
それは墓穴を掘っているのに過ぎない。

「がいこくじん、という人々」

いま、にほんを出て遠い国に住んでいるから、ここでわたしは〈がいこくじん〉である。
そういう立場になる前は、外国人の気持ちを実感として持つことができなかった。

たとえば、東京に暮らす外国人の知り合いが、
「『ほらね、あの人は外国人だから、やっぱりね』と思われたくないから、
自分はゴミの分別にはかなり気をつけているのだ」
と言っても、
(あら、えらいのね)
とか、
(なるほど外国人は大変なのだ)
とか
ぼんやりと感じることしかできなかった。
理性でわかったふりをして、実感はちっとも伴っていなかった。

今まで一度も日本人に会ったことがない人の、
初めて会った日本人が〈わたし〉だった場合、
もし〈わたし〉がてきとーなことをやって印象が悪くなったら、
自ずと〈にほんじん〉や〈にほん〉に抱くイメージも悪くなる。
ネガティブの引力は相当強い。
これは、軽くオーバーに言って、外交問題になりかねない。
実におそろしいことである。

いっぽう、〈わたし〉の印象が良ければ、
自ずとにほんじんやにほんの印象もよくなるけれど、
そういう場合、それはぜんぜんたいしたことじゃない。
なぜなら、
良いことはたいてい目立たないからである。
っていうか、
目立ってはいけないんだと思う。

みなさんよろこんでいましたよ。

と、当たり前みたいに言ってもらえたら、
ほんとうは、ものすごくかっこいい。
わたしはそうありたい。

金曜の夜、
マジで初めて、そう思わされた。